山行報告 2024(令和6)年.1月分~12月分
2025年1月12日(日)山の辺の道
参加者:4人
天気:晴れ
2025年は巳年、巳に縁のある桜井市の大神神社へ初詣。山の辺の道を
天理から桜井まで歩く計画をした。事前の予報では雨だったのが当日は晴天に恵まれ、また暖かいウォーキングを楽しんだ。石上神宮、夜伽神社と参拝。古墳を見ながら、時に道間違いをしながらのんびり。トレイルセンターで休憩をとりお弁当を食べる者ありレストランでランチする者あり、食後のコーヒーを楽しむ者ありと各自ゆっくりした。大神神社へ近づとたくさんの参拝者、神社ではあちらこちらで行列があった。脇から失礼してそそくさとお参りした。バスで桜井駅に向かうつもりだったがバスは休運でJRも乗りそびれ結局桜井駅まで歩き近鉄電車で帰路についた。
【兵庫県】 香住蟹とジオパーク
2024年12月22日(日)~23日(月)
コースリーダー:吉川 参加者:3人
新大阪駅午前9時に出発。
天候の悪化が予想されたため予定を変更し、初日は出石城下町(重要伝統的建造物群保存地区)を歩く。
まずはゆ
・出石史料館
「生糸を商っていた明治時代の豪商、福富家の旧邸を改装して作られた史料館で、出石藩ゆかりの史料を中心に展示。
土台に使われている石だけで家が一軒建つと伝わる屋敷は、京都から職人を招いて当時流行の数奇屋風に仕上げたという贅沢な造り。
明治期の高度な建築技術が駆使された建物は極めて貴重で、兵庫県住宅百選。」
その先は
・出石酒造有限会社
「出石城下町にある出石酒造は、宝永5年(1708)創業。江戸時代中期、徳川綱吉の時代が始まり。
宝永3年(1706)に出石藩主松平公と信州上田藩の仙谷公のお国替えがあり、その仙谷公が宝永5年に「酒を献上せよ」と命じたという史実が残っていることから、その年を創業年としている。
見学、試飲可能。」
ここで試飲とお酒、酒粕を購入。
このあと、昼食は定番の出石蕎麦を今回はそば処本陣鸛屋でいただく。
目の前が池をはさんで出石のシンボル辰鼓楼である。
食事後は
・出石城
「慶長9年(1604)、小出吉英(よしふさ)によって有子山の麓に築かれたお城です。出石城の築城とともに城下町が整備され、出石の町並みが形成されました。小出氏、松平氏、仙石氏と城主を代えながら、明治の版籍奉還まで270年間にわたって、五万八千石の本城として威容を誇りました。」
城趾の先の有子山城登山口まで石段をのぼり引き返す。天気が良ければ登りたかった。
その下の珈琲蔵風空路欧でコーヒーブレイクのあと
・出石明治館
「元は明治20年建築の郡役所で、木造2階建てのレトロな洋館です。中には出石の近世の歴史が展示されています。」
を見学して、かの愛之助も来るという
・出石永楽館
「明治34年開館の近畿最古の芝居小屋
一度は閉館するも、44年の時を経て奇跡の復活を遂げた。
全盛期の大正時代の姿が忠実に復元された、貴重な劇場機構は必見です。興行の無い日は一般公開されていて見学が可能です。」
客席や舞台、花道また廻り舞台やせり上がりの奈落まで見学できテンションが上がる。
・出石家老屋敷
「白亜の土塀と長屋門のあるこの屋敷は、高級武士(家老級)の居宅として使われたものです。出石城の内堀の近くで、江戸時代後期の上級武士の居住区であった内町通りに面しています。」
雨のそぼ降る中を歩いたが見どころ満載で楽しかった。
香住に移動し、いつもの英祥さんへ。
温泉に浸かったあとカニ料理。今回も満腹になった。ごちそうさまでした。
夜間は霰が降るなど荒れた天候であった。
翌日の23日は朝食後に宿をチェックアウトし餘部へ。昨日よりは天気は回復している。列車の時間に余裕があったので余部埼灯台で景色を楽しむ。日本一高い場所にある灯台で但馬御火浦の荒々しく変化に富んだ断崖を眺めることができ、パワースポットでもあるらしい。近くには平家伝承の地である御崎集落があった。
餘部に戻り余部鉄橋空の駅で買い物する。
大惨事があった鉄橋はきれいなコンクリートの橋に変わっており以前の鉄橋の橋桁は保存されている。
・余部クリスタルタワー
「地上から余部鉄橋「空の駅」を繋ぐタワーです。全面ガラス張りのクリスタルタワーは、鉄橋下が見られるのぞき窓で地上41mのスリルと日本海のパノラマが楽しめます。」
を経由しその先の餘部駅から10時46分発の列車で一駅先の鎧駅まで行った。数年前もこの駅で下車し歩いたが、今回は逆方向の道をいく。山道ではあるが以前は住民が歩いた道だ。ところどころの樹木の切れ目や展望台からはリアス式海岸が見下ろせる。
余部鉄橋空の駅に戻り、昼食は香住の旨いもんや笑らで豪華な海鮮丼をいただいた。
帰り道には温泉がなく、箕面温泉水春で汗を流して、江坂駅で解散となった。
おつかれさまでした。
【大阪・生駒】 鳴川谷~十三街道 歴史の道
2024年12月1日(日)
CL : Yosm 参加 5名
近鉄瓢箪山駅から鳴川谷を登り鳴川峠でちょっと早めの昼食。ここから信貴生駒スカイラインと並行する稜線の山道を紅葉を楽しみながら進むと、鐘の鳴る丘展望台へ。ここでは眼下に大阪平野が一望できる。暫く行くと十三峠につき、ここからは業平も通った河内へ下る道。途中に水吞地蔵院という山中にしては立派なお堂があり、展望も開けている。下りは参詣道になっていて路傍の石仏に思わず和みが。神立の村に入ると共同墓地の下手に、府下最大の石室を持つ愛宕塚古墳が現れた。飛鳥の石舞台に匹敵する規模である。更に下ると中河内最大の前方後円墳たる心合寺山古墳が威容を見せる。国の史跡として当時の姿に復元された。見どころ満載である。その後、八尾市歴史民俗資料館を見学して服部川駅へ。お天気に恵まれ、山の紅葉と歴史の道を楽しんだ一日であった。
【鹿児島県】霧島 高千穂峰
2024年10月26日(土) 27日(日)
コースリーダー:井手野下、吉川 参加者5人
10月25日(金)三ノ宮駅に集合して、タクシーにて神戸港へ。乗船手続きをして乗り込む。18時30分からの夕食バイキングに先頭で入る。出港は19時10分で一路宮崎へ。部屋は行き帰りともドミトリールームで寝るだけなので快適だ。くつろげるロビーでの生演奏や大浴場もあり、甲板にも出ることができた。
淡路島と友の島の間を抜け太平洋に出るとうねりだすが、それほどの揺れではない。
翌10月26日(土)宮崎港には8時40分到着し、レンタカーで高千穂河原ビジターセンターにて広島組と合流する。
ビジターセンター(984m)で山のレクチャーを受け、 霧島神宮 古宮址天孫降臨神籬斎場をお参りして登り始める。
雨天が予想されたが、天気は曇りで御鉢(1408m)に出て馬の背を行く頃になると霧で視界不良となる。ここで一部が離脱し、しばらく進むが分岐で引き返すこととする。
降りる途中で全員が合流し、無事に下山できた。
雨に当たらなかったのはよかった。
この日の宿は旅行人山荘で、なかなか立派な宿で部屋や露天風呂からは桜島が正面に見え、ロビーの書籍や展示品も充実し、飲み物も自由にいただけた。食事も個室でゆっくり美味しくいただき、森の中の貸し切り露天風呂も楽しめた。
翌日は晴れて正面に見える桜島の上だけ三角帽のような雲がかかり富士山のように見える。しかし、えびのエコミュージアムセンター(1192m)は霧の中で近くでは火山性ガスも出ているようだ。用意をして登りだすが、曇り、霧雨、晴れ間と目まぐるしく天気が変わる。五合目避難小屋で1名待機し、残りメンバーでピークを目指す。六、七、八、九合目を超え韓国岳山頂(1700m)に到達する。食事していると徐々に雲が晴れてきて、ついにはきれいに見渡すことができた。正面の大浪池から桜島まで見えたが、反対側のカルデラの絶壁も現れて、足が震えるほどの恐怖であった。
下山してえびのエコミュージアムセンターに着く頃にはまた霧の中であった。
霧島新燃荘の温泉に立ち寄り後解散して、宮崎港から行きと同じフェリーで神戸に着いた。
お疲れ山でした。
【兵庫県】砥峰高原〜峰山
2024年10月14日(月、スポーツの日)
コースリーダー:吉川 参加者:4人
新大阪駅に集合した一行はプリウス号にて新御堂筋ー池田インター中国縦貫道ー播但連絡道ー神崎南ICと順調に進み砥峰高原に10時前に到着した。
駐車場がいっぱいかと心配したが、余裕で入れてよかった。
とのみね自然交流館(817m)に寄り、正面のステージ状のスペースですすき原をバックに記念撮影して準備運動、コース説明のあと歩きはじめる。すすきで有名なだけあって 周り一面はスズキの原っぱ。 ハイキングコースがあちこちにあり、池の横を抜けて登りだす。すすきだけではなく秋の花も咲いている。それらの野草を撮影している方がおられた。花に詳しい方で名前をみんな教えてくれた。
ウメバチソウ、リンドウ、アキノキリンソウ、センブリ、オミナエシなどであった。
砥峰高原展望台から見下ろすとなかなかの景色だ。分岐をさらに奥に歩くと今日の最高峰の峰山(1038m)だ。眺望もなく標識もなく、ただ三角点だけがあった。12時すぎころ、近くの丸太を腰掛けにして食事を摂った。食事後は来た道を分岐まで戻り、そこから周回コースに入った。
すり鉢状の斜面の尾根を、眼下いっぱいに広がるすすき野を見下ろしながら下っていく。このあたりは登山というよりハイキングコースで、行き違う人も増えてきた。東屋でしばし休憩のあと、とのみね自然交流館まで戻って今日の行程は終了した。その後クルマに乗り込み狭い道を対向車とすれ違いながら、一宮温泉まほろばの湯で汗を流した。
サウナは無いが温泉は味のある泉質であった。
帰りは山崎ICから中国縦貫道を走るが、事故渋滞が発生し迂回ルートも事故渋滞のため、あきらめてそのままルートを変えずに帰った。
お疲れ山でしたー
砥峰高原(とのみねこうげん)
雪彦峰山県立自然公園に属する標高800~900mに位置する面積約90ヘクタールの草原で、峰山・雪彦と共に県立自然公園にも指定されている。西日本有数の規模を誇るススキの高原は、遊歩道や展望スポットがしっかりと整備されている。
2010年公開の村上春樹原作の映画『ノルウェイの森』の主要撮影地となって以来、映画やドラマ、平清盛、軍師官兵衛、信長協奏曲などのロケ地としても有名。
【兵庫県】七兵衛山
2024年9月16日(月・祝)
CL: Yosm 参加者:2名
9月も半ばを過ぎたというのに、猛暑の日々が続いている。暑さ負けのせいか、9時半に岡本駅に集まったのは2名のみ。八幡谷を流れる川沿いを北に上がり、登山口から山に入る。この山道には地元の方が倒木を使って手すりやベンチをあちこちに作ってくれており、有難さが身に染みる。山の神に辿り着くと広場全体に手製のベンチが設けられ、ひと休み。ここからは森林管理道をひたすら登るが、普段はそんなに感じないが、夏の汗みどろの登山道はとても長い。やっとこせで打越峠。ここから巻き道を登って、11:30に七兵衛山頂。ゆっくり昼食を採っていると、この山を手入れして下さっている方(えっちゃんと呼ばれているようだ)が登って来られた。この日も鋸などの道具を持っておられ、週に2回は手入れに来られているという。山頂には海を見渡せるベンチがいくつも据えられており、ハイカーにとってはこの上ない休憩場所だ。ここまで整備するのに、12年かかったらしい。帰りはロックガーデン方面にはゆかず、別の森林管理道を下りたが、ここも手作りの橋が架けられたりして、土木工事までして頂いているようだ。本当に頭が下がる思いだ。えっちゃんに感謝しつつ、夏の七兵衛山行を終えた。
【大阪府】摂津峡 沢登り
2024年8月4日(日)
コースリーダー:GM 参加者:3人
JR高槻駅北口のバス停に集合。別の沢登りグループからはぐれた方がおられたので同行することに。
市営バス9時35分発で塚脇バス停で下車し、進行方向に歩く。摂津峡公園では準備体操とコース説明を行った。
ここから川をはさんだ対岸の山が、わが会でも何度か登った三好山(芥川山城跡)、である。最近テレビでも取り上げられ「最初の天下人」ともいわれる三好長慶の城のうちのひとつで、行政も力を入れだしたようで、立派な案内板や公園内には三好長慶の像までできていた。
ここを下り川に入渓する。キャンプ場もあるため子供や家族連れでにぎわっている。最初の小さな石堰で同行の方がつまづき、早々に別行動となる。川は浅いところ、深いところ、岩場、砂利と色々あるが苔が多くて滑る。天気が続いた割に水量はまずまずで、暑い中だが水は気持ちよかった。
最終地点で食事してから、来た川を下るが、帰りは川沿いの遊歩道を歩く者もいた。
摂津峡公園に戻り、その先の翔風苑温泉で汗を流す。そしておきまりの🍺で水分補給して出たら大雨。なんとか濡れずに送迎バスで高槻駅に戻った。 お疲れ⛰️でした。
【大阪府】 総会 池田 町歩き2024年7月7日(日)
コースリーダー:濱野 参加者5人 外総会のみ参加1人
阪急電車宝塚線 池田駅 改札口に午前9時半集合。 7月の初めなのにとてもとても暑い 。集合後は 初めに 池田室町住宅と呉服神社に行く。その後、 落語ミュージアム、旧加島銀行に行く予定でしたが、ミュージアムは オープン前、 そして旧加島銀行のインテリア店は休業 。外からの眺めることにする 。そして、吉田酒造→呉春→池田文庫そして逸翁美術館へ。 外はやはりとても暑く、当初の予定の行程の半分しか行くことはできなかったけれど 、それでも休みながら、ゆっくりとそれぞれの場所で楽しく学ぶことができました。 そしてその後 小林一三記念館内の雅俗山荘で素敵なランチをいただきました。その後 2時より五月山都市緑化植物園の2階の会議室にて、 総会開始。3時半に無事終了いたしました。 参加されました皆様 お疲れ様でした。
当初予定のコース:池田室町住宅(池田室町住民憲章碑)ー呉服(くれは)神社ー旧加島銀行池田支店ー落語みゅーじあむー池田呉服座ー吉田酒造ー呉春ー伊居太(いけだ)神社ー(五月山動物園)ー池田城跡公園ー池田文庫ー逸翁美術館(有料、割引有)ー小林一三記念館
・池田室町住宅
小林一三の発案により、有馬箕面電気軌道(現阪急電鉄)が呉服神社周辺の土地2万7千坪207区画を開発し、明治43年(1910年)、同鉄道の開通にあわせて分譲を開始した郊外型分譲住宅。
日本で初めて電鉄会社により開発された分譲型の「郊外住宅地」であり、敷地約100坪を一区画とした2階建て5~6室の住宅を、10年の月賦販売という当時としては斬新な住宅ローンを採り入れたものでした。小林一三は住宅購入対象者を、資産家ではなく大阪に通勤するサラリーマンとし、この住宅地を「池田新市街」と名付け(後に「室町住宅」と改称)、娯楽部の設立、会社直営の購買組合を開設し公園や果樹園なども設置されて、模範的郊外生活が追求されました。
・呉服(くれは)神社
くれは神社は創建が仁徳天皇77年(389)と、歴史のある神社です。主祭神に第16代仁徳天皇、呉服大明神、つまり織姫さんを祀っています。第15代応神天皇(14代仲哀と神功皇后の子)の時代、中国の呉に織物の技術を得る為に渡来系官僚の阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)を送り、4人の織姫が来日、その織りの技術と染色を広める事で日本独自の和服が発展したという。なお呉国とは中国春秋時代の呉越の呉ではなく半島の百済を指すものと思われます。そんな歴史から、池田市の市章は糸巻織りのデザインが採用されています。ご利益は家業繁栄、手芸の上達等。天正7年(1579)に有岡城の戦いで焼失(・摂津池田氏と池田城の項で後述)、本殿は慶長9年(1604)に豊臣秀頼が再建したもの。
・旧加島銀行池田支店(現インテリアカワムラ)
1888年(明治21年)設立、1937年(昭和12年)に廃業した加島銀行の池田支店。
1918年(大正7年)の木造モルタル2階建ての建築で、石と赤煉瓦の外観で組積造風に見せ、窓上や柱型上部には装飾を設け、正面西側部分にはマンサード屋根(外側四面寄棟二段勾配屋根)の破風を設けて塔屋風に見せている。設計には東京駅や日本銀行本店、大阪市中央公会堂を手掛けた建築家、辰野金吾も加わっており、登録有形文化財に登録されている。
加島銀行はNHK連続テレビ小説「あさが来た」で主人公、白岡あさが設立する「加野銀行」のモデルとなった。
加島銀行の関連では唯一現在も残る建物だという。
・落語みゅーじあむ
日本初の市立の落語資料展示館で、上方落語に関する資料が常設展示されている。
池田は落語との縁が深く、「池田の猪買い」「池田の牛ほめ」「鬼の面」など古典落語の舞台にもなっている。
桂文枝が池田市に在住しているほか、初代・二代目春團治の碑が市内の寺に建立されている。
・池田酒
戦国時代の池田は城下町でしたが、江戸時代は商業都市として発展。特に備長炭と並ぶ最高級炭として知られる池田炭の集散地として栄えました。池田酒の全盛期は江戸時代前期で42軒の酒造家が認められ、伊丹と並ぶ銘醸地として栄えました。江戸後期以降、水質や輸送性に優れていた灘が台頭し、池田の酒造業は衰退していきましたが、現在も2つの酒蔵があります。
・呉春
元禄14年(1701年)創業で、酒蔵内の井戸で名所五月山の伏流水を汲み上げた水を使い醸造されている。
与謝蕪村に学び、この地に居した絵師松村呉春ゆかりの名前。谷崎潤一郎の愛飲の酒でもある。
・吉田酒造
元禄10年(1697年)に加茂屋平兵衛によって創業した「緑一」の蔵元。主屋は蔵、塀ともに国指定の有形文化財。
阪神・淡路大震災により酒蔵が全壊したが、酒造りの拠点を兵庫県加西市に移して製造し、再建した池田市の蔵でろ過や瓶詰め、ラベル貼りなどを行っている。
・伊居太神社(いけだ)
仁徳天皇77年(417年?)創建と伝わる式内社(延喜式神名帳に記載のある官社)で、池田市に現存する中では最古という織姫伝承の神社。御祭神は「応神天皇」「仁徳天皇」「穴織(あやはとり)大明神」。「穴織大明神」は、別名「穴織媛(あやはとりのひめ)」といい、呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる織姫。
呉服神社が「下の宮」とされるのに対し、こちらの伊居太神社は「上の宮」と称し対をなしている。
本殿は信長に焼かれ(・摂津池田氏と池田城の項で後述)豊臣秀頼によって再建。五間社流れ造り桃山時代建築の遺風を残す。
昔、源頼光が大江山の鬼退治祈願のために植えた「頼光松」の切株が残され、近くには「徒然草」の吉田兼好松もあったという。
拝殿ではNHKテレビ「てるてる家族」の撮影がされた。
尚、尼崎市下坂部にも伊居太神社(いこたじんじゃ)があり、こちらは穴織は祀っていない。
・池田市立五月山動物園
1957年(昭和32年)4月に開園。入園料が無料で親しまれている。
国内で飼育されているウォンバット4匹のうち3匹がいる。これらは池田市とオーストラリアのタスマニア島ローンセストン市との姉妹都市提携25周年を記念して、1990年5月に3匹が寄贈された。2017年にも3匹がやってきた。
池田市は「ウォンバットと暮らすまちいけだ」を合言葉に、市のキャラクターとしてPRに活用。
最も多い時は6匹いたが、病気や老衰で数が減少。残る3匹も高齢化し雄の「ワイン」は平均寿命の20歳を大きく超える35歳、人間では100歳超にあたり、飼育下で世界最高齢のギネス記録に認定されている。
池田市は、ウォンバットを継続的に飼育できる道を探り、豪州の動物園と協議。豪州はウォンバットの輸出を制限しているが、五月山動物園は飼育実績があるため、来年夏までに新たに2匹を引き受ける方向で調整が進んでいる。リニューアル工事のため令和6年6月1日より閉園中。
・ウォンバット
オーストラリア南東部を中心に生息するカンガルーと同じ有袋類の動物で、木登りしないため「地上のコアラ」とも呼ばれることも。
・小林一三
1873年(明治6年)1月3日-1957年(昭和32年)1月25日
山梨県韮崎市出身の実業家、政治家。名前の一三は1月3日生まれから付けられた。
阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループの創業者。
これらの事業は後に阪急百貨店、宝塚歌劇団・東宝として阪急東宝グループを形成する。その過程で六甲山麓の高級住宅地の開発、学校法人関西学院等の高等教育機関の誘致や温泉、遊園地、野球場など娯楽施設の整備を行い、日本最初の田園都市構想を実現した。
実業界の美術蒐集家、また茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、彼の雅号をとって「逸翁(いつおう)コレクション」と呼ばれている。これらを集め公開しているのが「逸翁美術館」である。元々は彼の旧邸・雅俗山荘にあったが、その後美術館は現在地に移転新築され、雅俗山荘はレストランと小林一三記念館として一般公開されている。近くにはシオノギ製薬創業者の塩野義三郎邸もある。
・池田氏
第12代景行天皇の子の大碓皇子(おおうすのみこ)の後裔が、池田姓を名乗ったことに始まるという。
大碓皇子は女性のことで父である景行天皇と不仲となり、双子の弟である倭建命(日本武尊)に殺されてしまう。
池田氏は摂津と美濃に荘園を持っていた関係で、池田氏の末裔が大阪北部に移り住んで摂津池田氏の始祖となり、さらに摂津池田氏の末裔が美濃に移り住んで美濃池田氏となった。戦国から江戸にかけての大名である池田家は美濃池田氏と称している。
池田氏の中では戦国大名の池田恒興が著名で、織田信長の家臣から秀吉に仕え、その子池田輝政は徳川家康の娘督姫を室に迎えて、家康より播磨国を与えられ姫路藩初代藩主となり、姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。その子池田利隆と池田忠継らが領地を分け、転封が繰り返された後、備前岡山藩主と因幡鳥取藩主として廃藩置県まで続いた。維新後両家とも侯爵家に列する。
・摂津池田氏と池田城
池田氏(摂津池田氏)は鎌倉時代から江戸時代にかけて池田城を本拠とした一族。
鎌倉時代の古文書にその名が見られる。
応仁の乱で池田充政は細川勝元の家来のため東軍につくと、西軍の大内政弘の軍に攻められ1469年に池田城は落城。しかし大内軍が去ったため復帰した。
池田氏は細川家の内紛により細川澄元(勝元の養子)につくが、池田正盛の裏切りで細川高国(勝元の養子)により1508年に2度目の落城をし、城主の池田貞正は切腹。池田正盛が城主となる。
1519年池田貞正の子信正が兵を挙げ池田城を奪還するが、1531年に細川高国と浦上村宗の連合軍に攻撃され落城。しかし直後の大物崩れにより城を取り返すと防御を増強する。1548年池田信正は細川晴元を裏切ったとして切腹させられ、子の長正が家督を継ぐ。
池田長正は細川氏から実権を奪った三好長慶につくが、子の池田勝正は1568年織田信長に池田城を攻められ、町に火を付けられる猛攻のため降伏し信長の家来となった。(上記伊居太神社の項参照)
1570年池田勝正の家臣で池田長正の娘を娶っていた荒木村重が池田氏内紛を画策し、織田方の勢力を一掃し池田勝正は落ち延びた。荒木村重は勝正の弟である池田知正を城主にしたが、実際は村重が池田城を支配し乗っ取った。
1573年荒木村重は突如として織田信長の家臣となり、摂津国の戦国大名となった。翌年村重は伊丹に有岡城を築き、拠点を池田城から有岡城に移した。これにより池田城は廃城となり(同時期に芥川山城も廃城)、池田一族は江戸時代にかけて徐々に歴史からその姿を消していった。
1578年荒木村重は織田信長と敵対し、怒った信長は自ら池田城に陣を敷いた。
1579年荒木村重は城を出た後、有岡城は落城。女房衆122人、一族郎党36人、それ以外の人質衆男性124名、女性388名、合計約670名が、尼崎近くの七松や、京の六条河原で斬首された。
また金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害された。信長の怒りのほどがわかる逸話である。
有岡城が落城の際に、荒木村重の子で数え2歳の乳飲み子が乳母に助け出されていた。
その子の母「だし」はまだ21歳と村重より24歳も若い妻だったが、河原に引き出されても全く動じることなく、小袖の襟を整えて静かに手を合わせたその姿は見る者の涙を誘いました。辞世の句は
「残しをく そのみどり子の心こそ おもいやられてかなしかりけり」
(この世に残していくみどり子の気持ちが思いやられて悲しい)。
この乳母に救い出されたみどり子は、石山本願寺に保護され、成人後は母方の岩佐姓を名乗り、やがて絵師として身を立てていく。
それこそが浮世絵の元祖と言われる、岩佐又兵衛であった。
有岡城を出た荒木村重は、毛利氏のもとに落ち延び、名を道糞から道薫と称して茶人として本能寺の変の4年後1586年52歳まで生きた。
(池田市教育委員会資料等より)
クリーンハイク【大阪府】妙見山 2024年6月2日(日)
コースリーダー:白井 参加者:5人
今日は年に一度の山に恩返しをするクリーンハイクの日だ。
急な欠席者も出たが、一般参加の方も来てくれて、総勢5名でクリーンハイクを行う。
早朝にかなりの雨が降ったようなので、川の増水や足場のぬかるみを避けるため川沿いのコースはやめて、今回は上杉尾根コースを選択する。
妙見口駅でオリジナルのクリーンハイクの腕章を付けて、花折街道を北へ進む。ここは妙見さんへ参拝する丁石道でもある。
国道477号を信号で渡り、その先の登山道から山道に入る。
最初は急な坂道もあるがおおむねなだらかで歩きやすい。尾根道のため雨の影響はほとんどなく、広がれる道では横に広がって広範囲にゴミの回収を行った。
ゴミは所々にあるがこの時点では量はそれほどではない。
所々景色の良いところもあり、雨上がりのため気温も上がらず、涼しく快適な山行きであった。
妙見山まで残りわずかとなったあたりから急激にゴミが増えてきた。
上部の駐車場から投棄されたゴミと思われる。中にはクルマのタイヤやバイク自体もあり、さすがに回収できなかったものもあった。
坂を登り切ったところが妙見山の大きな駐車場で、その一角にゴミステーションがあり、その前でゴミを分別し、半透明の袋に入れ、重量を測って、記念撮影しクリーンハイクは終了。
妙見山の公園の四阿で食事をいただき、 その後本堂をお参りさせていただく。
帰りは大堂越コースで、関西では珍しいブナの原生林を抜け下って行く。2023年12月3日にケーブルカーとリフトやバーベキューテラスは営業終了しており人影はまばらだ。
そしてこのあたりは炭も有名で、炭焼き窯の跡や林業遺産の炭焼き用の台場クヌギ群落があった。
ケーブルカー乗り場では未だケーブルカーが残っており、今にも動きそうな状態だった。ここで山道は終了。
そこから駅方面へ歩いて行き、途中少し道を逸れて吉川神社で往年の阪急電車2両とお馬さんを見て、拝殿を参らせていただいて、集落を抜けて駅に着いた。
お疲れ様でした。
微妙な天候の下での決行であったが、ほとんど雨にかかることなく終了できた。下山して電車に乗った途端「ザー」と結構な雨が降り、本当にラッキーだった。
奉仕活動のあとの気分は、何とも言えない清々しい気持ちで、思い出に残るクリーハイクとなりました。
登山道は年々きれいになっており、最近では落とし物以外でゴミを捨てる者はまずいない。
今回も大半が以前に捨てられた物(缶はプルトップが外れる昔のタイプ)やタオル、手袋等の落とし物が多かった。
しかし道路脇や駐車場まわりは明らかに投棄された物がほとんどでその量も登山道の比ではなかった。
自分の足で歩く登山者はゴミを持ち帰るのに、クルマの連中はゴミを捨てていく。またはゴミを捨てに来る。
自然や環境に対する意識の差であろうか?
考えさせられる。
結果:瓶 約9kg 缶 約8kg ペットボトル 約1kg 古タイヤ 約18kg その他 約3kg 合計約39kg
倒木:登り3本 下り2本 登山道を塞ぐほどの倒木はなかった。
ゴミ回収協力:大阪府豊能町役場環境課
【京都府 滋賀県】牛尾山 音羽山
2024年5月5日(日)
コースリーダー:吉川 参加者:2人
集合場所の京阪京津線追分駅は滋賀県の駅では最西端に位置し無人駅である。大津絵の発祥の地と言うこともあって、ホームの壁面に大津絵の複製が2枚ずつ掲げられている。午前9時45分に出発すると同じ山を目指すハイカーカップルも歩いていた。国道1号線を地下通路から渡って、以前歩いた京街道を京都方向に歩く。髭茶屋の追分分岐を左に取ると弥生時代の芝町遺跡の案内板があったので寄ってみる。樟の大木の横に岩坐らしい、しめ縄で飾られた大きな石が祀ってあった。古代の信仰の対象であった「岩境(いわさか・いわくら)」と考えられる。
住宅地を歩くと「京の田舎民具資料館」があった。入館料500円で少し興味はあったが素通りしてしまう。鎌研ぎ橋登山口手前に白石神社がありここはお詣りさせていただく。素戔嗚尊を祀り御神体は巨石でてっぺんに家康が割ろうとしたという3列の鑿跡があるという。
神社の少し先には再現された露山水車が回っており、花の手入れをされていた2人の地元の方にお話をうかがう。このあたりが鎌研ぎ橋登山口で山科音羽川沿いに牛尾道を行く。
登山道と言っても時々車が通るアスファルトの道で、川の上流にかけて所々でキャンプをされてる人たちがいた。
道沿いにはいくつもの大小様々な滝があり、水は冷たくて涼も取れるし、所々に小さな水車や鹿威し(ししおどし)などがしつらえており趣を添えていた。中でも音羽の滝は立派であった。
蛙岩やお経岩などを眺めながら行くとやがて広い平地の桜の馬場と黒門に到達した。
この黒門とその先の石段は台風で流されたものを再建したという。これを登りきったところが牛尾観音・法嚴寺(標高370m)でお詣りしたあと境内のベンチでお昼をいただいた。午後の部はここからさらに上がって牛尾山(551m)へ。ここから石山寺に下りるコースもある。
さらに登って今日の最高地点の音羽山(593m)山頂に着いた。天気良く景色も良く手前には如意ヶ嶽とその先には比叡山や琵琶湖が見渡せる。
ここらあたりは東海自然歩道で下っていくと逢坂の関にたどり着いた。
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸
かねよのうなぎの匂いをかぎながら大谷駅から帰路についた。
お疲れ山でした。
・髭茶屋
髭づらの老人が茶店を出していたところから、この名がついたと言われています。
・法嚴寺
770年に延鎮上人により開山。古くから山岳修行の地だった。
本尊の十一面千手千眼観世音菩薩立像(高さ1.2m)は天智天皇の手彫りと伝わる。
地名の音羽は約6キロ離れた清水寺の山号と同じで開山も延鎮上人。両寺の本尊は同じ木から彫られたと伝わることなどから、「清水寺の奥の院」と称された。
2013年9月の台風18号により約200段の石段や門が流失し、寺とふもとを結ぶ山道も土砂崩れで寸断された。復旧はされたが、本堂などの文化財の傷みは深刻で2023年春の「京都非公開文化財特別公開」において寺宝を初めて公開し、拝観料を文化財修理の復興に充てる。
・音羽山の支峰である牛尾山には延暦年間に仁海によって法厳寺(牛尾観音)が創建された。牛尾山にある同寺に対する信仰が広まるにつれ、音羽山も名所として知られていくこととなった。紀貫之、在原元方など多くの歌人が音羽山を歌枕として詠んでいる。また、京都に三ヶ所所在したとされる「音羽の滝」のうち、「牛尾の音羽」については音羽山の西腹を流れる山科音羽川の滝と比定されている。
牛尾山は、古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰された。牛尾山の山頂にあった牛尾宮は比叡山延暦寺の鎮守であった日吉山王権現21社の一つで、山王の王子である8人の眷属神が八王子権現として祀られ、千手観音菩薩を本地仏とした。また牛尾を忌みて、祇園精舎の守護神である牛頭天王が頗梨采女(はりさいにょ)との間に設けた8人の王子かつ眷属神が八王子権現との信仰も発展した。
・八王子
日吉山王権現、あるいは牛頭天王の8人の眷属神(相光・魔王・俱魔良・徳達神・良侍・達尼漢・侍神相・宅相神のこと。夫々の本地は釈迦・文殊・弥勒・観音・薬師・普賢・阿弥陀・地蔵。)は八方の各方位を司るとされた。塞神信仰や陰陽道の影響で、病気や災厄を免れるご利益をもたらすと信じられた。
ウィキより
【兵庫県】笠形山(播磨富士)
2024年4月28日(日)
コースリーダー:GM 参加者:4人
兵庫県神崎郡神河町、多可郡多可町の境にある笠形山の別称。標高939メートル。播磨富士と呼ばれる笠形山に初登頂。
大鳥居 笠形神社、笠形山 ほうらい岩 仙人滝の周回コースを歩きました。
天気は快晴、新緑のなか気持ち良く歩くことができました。初めての笠形山は良い山でした。
笠形神社の鳥居をくぐり参道を歩き始める。笠形神社の素敵な佇まいは立派である。かなり広い、歴史のある神社 でも管理が行き届いていて綺麗に保存されてる、御神木が樹齢850年そのあたり神秘的な空気が漂っている。笠ノ丸から頂上までの鬼階段はなかなか厳しい登りでしたが無事に登頂。
笠形山は展望が素晴らしくどこからでも山々の連なりが見える、360°パノラマは最高。
ミツバツツジやアカヤシオなどの花が迎えてくれました。仙人滝あたりで少し迷いましたが無事に下山。
帰りはせせらぎの湯でほっこりさせていただきました。充実した山行となりました。
コース:上新庄駅→(約2時間)→大鳥居ー(25分)ー休み堂ー(30分)ー笠形神社ー(40分)ー笠ノ丸ー(20分)ー笠形山(939m)ー(20分)ー笠ノ丸ー(30分)ー蓬菜岩ー(30分)ー仙人滝ー(60分)ー瀬加バス停跡ー(15分)ー大鳥居
関西百名山、近畿百名山、ふるさと兵庫50山、仙人滝:落差35m
笠形山は姫路市の北北東約30kmにあって、市川の支流越知(おち)川の左岸にそびえる。昔から人々の信仰の的としてあがめられ、山麓に立派な神社や古刹がある。別名を播州富士ともいい、笠をのせたような頂は播州路のシンボルとして、人々に愛されてきた。
一等三角点の頂上からの眺めは雄大で、播州方面は言うに及ばず、兵庫県下の山ならすべて指呼できるほどの展望である。県内随一の展望といえよう。
周辺には落差70mの遍妙(へんみよう)ノ滝や100mにおよぶ大滝もある。
【滋賀県】峰山 東山~海津大崎の桜
2024年4月7日(日)
コースリーダー:吉川 参加者:3人
桜の見頃のせいかJR湖西線新快速は混んでいる。永原駅(標高87m)に9時35分到着の新快速で集合し、まずは町歩き。地蔵磨崖仏を見たあと黒山集落で東光院の石仏群を見学する。集落を抜けお馬さんのいる横を通りフェンスを通り抜けると林道となる。後ろからも同じルートの団体さんが歩いている。歩きやすい林道を行くと登山道から外れるので藪を抜けて登山道に入る。万路越(428m)まではずっと登りだ。尾根筋に出ると道がわかりにくい。踏み跡もあまりなく倒木で道も荒れている。結局何度か道を外れては戻る破目になったが、登山アプリがなければ今回ばかりはゴールするのが難しかった。小ピークで食事後、峰山(531m)を超え展望台(557m)からは竹生島が正面に見えた。東山北峯(570m)、東山(594m)に到達し最後は下り下り下る。急なうえに落ち葉で滑る滑る。なんとか大崎寺まで下る。ここからは琵琶湖の湖岸沿いに満開の桜並木と琵琶湖の絶景や義経の隠れ岩を見て湖岸園地を通りながら歩く。ここは琵琶湖にせり出した岩礁地帯で琵琶湖八景の一つ「暁霧・海津大崎の岩礁」でもある。最後に前田利家公が振り返ったという満開の清水(しょうず)の桜を見てJRマキノ駅(86m)から16時47分発新快速に乗った。
お疲れ山でした。
・黒山集落
琵琶湖最北端に面する集落で、江戸時代にはびわ湖独特の帆船「丸子船」の基地として、大津湊に引けをとらない港町として繁栄しました。
・東光院の石仏や石塔群は賎ヶ丘合戦の折、柴田勝家輩下の武士たちの家族が菩提を弔って、お墓の代わりに石仏を奉ったと言われています。
・安土の血天井(阿弥陀堂)
天正10年6月2日払晚,明智光秀が主君織田信長を京都本能寺に 殺害した後、信長の居城安土城を攻めた。その際に城を守っていた 蒲生賢秀は変を知るや信長の夫人、幼児らを奉じて日野城に難を避 けたが、襲撃の目的が達せられなかった光秀はせめて金銀なりとも 奪って家臣に与えようとしたため、攻撃は惨を極め、城に居留って いた信長の家臣は皆奮戦ののち切腹して果ててしまった。
天正晩年、豊臣秀吉が、このとき戦死した人々の菩提を弔うため その忠血で彩られた城栈をもって大崎観音堂の修繕に充て、大に法 要を営んだ。これが安土の血天井と呼ばれ、昭和41年の観音堂改修 に際し本阿弥陀堂に移されたものであるが今も梅雨期には、血痕が 港み出し、その痕跡が現われると云われている。(案内板より)
・義経の隠れ岩
文治3年(1187年)義経主従が大津より北陸に都落ちする時、海津着船の際、敵に知られないようにしばらく隠れていたと伝えられる岩です。
謡曲「安宅」の中でも謡われています。
・海津大崎の桜は「日本のさくら名所100選」にも選ばれている。樹齢80年を優に超える老桜から次世代へ引き継ぐ若木まで約800本の華麗なソメイヨシノがびわ湖岸約4kmにわたり続きます。当時滋賀県修路作業員として大崎への県道の補修にあたっていた宗戸清七さん(当時37歳・百瀬村(現マキノ町)在住・故人)が、つらい作業の合間に自費で購入したソメイヨシノの若木を植えたことです。愛着のある湖岸の道に何かを残したいと黙々と植樹を続ける宗戸さんをやがて村の青年団が手伝うようになり、徐々に桜並木は伸びました。
・清水の桜
水上勉氏作の小説「櫻守」の中で、桜の移植や世話に一生を尽くした主人公の弥吉が死後その桜の下に葬ってほしいと遺言した、いわれのあるエドヒガンザクラです。樹齢300年を超え、高さ16メートル、幹回り6.4メートルの堂々たる巨桜は、江戸時代加賀藩主が上洛の際何度も振り返ってその美しさを愛でたことから「見返りの桜」の別名があり、滋賀県指定の自然記念物にもなっています。
【滋賀県】 霊仙山
2024年3月31日(日) コースリーダー:GM 参加者:2人
大阪市内を7:10に出発。
名神高速の多賀スマートインターの出口を見落とし彦根インターから河内風穴前経由して落合集落(廃村)に到着。すでに駐車場は満杯。無事に駐車スペース発見しそこから歩いて今畑登山口より9:15分に出発。
伊吹山から霊仙山にかけての一帯は近江カルストと呼ばれ,その昔,海の真ん中(赤道付近)の珊瑚礁だった地域で,ユーラシア大陸の方に移動・隆起して,日本という島ができたようです(伊吹山では貝の化石が採取できます)。
そのため,霊仙山の頂上付近には秋吉台のような地形が拡がっており,山のふもとには,「いざめの清水(霊仙山の伏流水)」や「河内風穴(鍾乳洞)」が出来ています。
いきなり急騰が続くがマイペースで近江展望台まで歩く。少しどんよりとした天気だが景色は素晴らしい。
いつ来ても広大に広がったカルスト地形特有のカレンフェルトが素晴らしい景色です。
途中福寿草の群生が見られました。
福寿草は石灰岩の散在する陽当たりの良い岩影のあちこちに群生していました。
理由は不明ですが,福寿草は石灰岩地域に好んで自生するようです。一輪だけ岩陰に凛とした姿を見せて咲いていたり群生もあり。
霊仙最高点1094m、霊仙山頂上1083m、経塚山1040mを経由して汗ふき峠まで周遊コースを歩く。
また季節を変えて霊仙山に訪れようと心に決めて山行を終了することができました
大きな山と素晴らしい景色という感じで、歩きごたえを感じました。花あり、岩あり、稜線歩きあり、渡渉ありと色々と体験のできるコースです。
・霊仙(りょうぜん)山は、滋賀県の犬上郡多賀町と米原市にまたがる鈴鹿山脈の最北に位置する標高1,094 mの山。山の東山腹は岐阜県大垣市上石津町と不破郡関ケ原町に属する。北側には伊吹山が対峙している。『花の百名山』として花の多い山であることが知られている。
明治以前には「霊山」と呼ばれていて、祖先の霊が籠る山である。
山体は石灰岩からなり、なだらかな山の上部にはカレンフェルトやドリーネなどのカルスト地形が見られ、「近江カルスト」の一角をなしている。山頂部には窪みが多数あり、「お虎ヶ池」はドリーネにたまった池とみられている。南西の山麓には河内風穴の鍾乳洞がある。多賀町の北東部に位置している山頂からは近江盆地と琵琶湖が一望できる。
スキー場などの大規模開発がほとんど行われていないため、豊かな自然が残っている。比較的登りやすいなだらかな山であり、登山道も整備されているため、登山初心者を始め登山客に人気が高い。頂上では360度のパノラマが広がり、琵琶湖や伊吹山はもちろん、白山や伊勢湾、時にはアルプスの山々までも見渡すことができます。山頂部にあるお虎ヶ池には霊仙神社がある。冬には、日本海側の若狭湾方面からの季節風の影響を受け雪雲が流れ込み易く、山頂部は1 mを越える積雪となることが多い。
霊仙山の名からわかりますように、周囲の山や峰には、経塚山や阿弥陀岳などがあり、周辺の山麗には宗教的な雰囲気がただよっています。
・カレンフェルト(〈ドイツ〉Karrenfeld)
石灰岩の節理や断層に沿って溶食が進んで溝が刻まれ、岩柱が林立している地形。 墓石地形。
・ドリーネ(ドイツ語: Doline,)
石灰岩・ドロマイト地域で地下に空洞が発達し表層が崩落して生じる陥没孔である。
今回は今畑コースを登ります。
廃村となった今畑から宗金寺、笹峠、近江展望台、南霊山を経て最高点の至る西南尾根に沿うコース。近江展望台からは琵琶湖などの展望が良い。
◆フクジュソウ
初春に花を咲かせ、春を告げる代表的な花のひとつです。夏まで光合成をおこない、夏になると地上部が枯れ、それから春まで地下で過ごす典型的なスプリグ・エフェメラルです。花の大きさは3~4cm ほどで、花弁は金属光沢のある鮮やかな黄色をしています。
花言葉は「永久の幸福」「思い出」「幸福を招く」「祝福」など。初春に花を咲かせるため「元日草(がんじつそう)」や「朔日草(ついたちそう)」といった別名を持ちます。福寿草という和名もまた新春を祝う意味があります。
・スプリング・エフェメラル(Spring ephemeral)は、春先に花をつけ、夏まで葉をつけると、あとは地下で過ごす一連の草花の総称。春植物ともいう。直訳すると「春のはかないもの」「春の短い命」というような意味で、「春の妖精」とも呼ばれる。
注意事項等
フクジュソウは全草(茎・葉・花・根)に毒があり、特に根・茎には強い毒があります。地面から芽を出したばかりの頃はフキノトウと間違えやすく、死亡例も報告されています。
フクジュソウは決して口にしないでください。
【滋賀県】鶏冠山・竜王山
2024年3月3日(日)
CL:Yosm 参加者4名
草津駅から帝産バスで上桐生に出て、そこから湖南アルプスの北谷林道を行きアスファルトが切れると北峰縦走路に入る。山道は斜度を増し、やっと頂上へ着いたかと思うと、また上に続く急勾配が出る。その繰り返しで、11時に鶏冠山着。南行きの下りはより急勾配となって慎重に進む。天気は良いが風が強いので、登り返して少し進んだ岩陰で早めの昼食を採った。大岩が林立するこの山の景観はいつ見ても素晴らしいが、高みへ出ると琵琶湖の南湖も一望できる。天狗岩を楽しみ、耳岩を経て白石峰でひと休み。ここから竜王山を往復して2座を制覇。下山路は狛坂線を辿り、CL最大のお気に入り狛坂摩崖仏に出る。奈良時代末の作といわれるこの大石仏は白洲正子も激賞した傑作であるが、酸性雨の影響か近頃損傷が著しい。所々悪い苔がこの石仏を蝕み、木の根が岩のすき間を侵食している。所有者たる財務省はこの大摩崖仏の価値を理解せず、何の保護もせずに放置し雨曝しの状態が続いている。このままでは後世にこの宝を遺せないと思うと、本当に心が痛い。帰路は南谷林道を経て上桐生に着き、予定通り16:00のバスに乗れた。足が揃って、順調快適な山行であった。
【大阪府】ポンポン山(678m)
2024年2月18日(日)
コースリーダー:吉川 参加者:6人
JR高槻駅から高槻市バス10時07分発に乗り出灰(いずりは)バス停下車(10時40分すぎ)して出灰川沿いの道を上っていく。集落の中に素盞鳴神社があり社頭の桂は樹高30m樹齢300年の御神木である。ここでストレッチとコース説明を行う。集落を抜けていくと光明寺に出灰不動尊が祀ってあった。さらに行くと川の向岸に奥の院があり清廉な空気が感じられ滝行に適した滝があるパワースポットであった。
川沿いの道に戻りしばらく行った登山口から少し上ったところには一休ゆかりの尸陀寺(しだじ)跡がある。実際に一休が住んだのはここより200m上方とのことだが道がなかった。登山道に戻り登っていく。そこそこの急登から尾根道に出てお昼を過ぎたので手前の山で食事タイムとなった。食事後ポンポン山山頂に到達。少し雨がパラついたがそれ以上崩れることはなかった。下山ルートは善峯寺へ直行と釈迦岳経由の周回ルートがあるが、釈迦岳も行きたいとの声もあり周回ルートとした。
釈迦岳で少し休んだあと下山ルートに取り付く。この時期はバスが善峯寺の手前の小塩までしか来ないので下山後道路を下るが、約1名以外はバスを乗り過ごしてしまう。やむなくさらに下のニュータウンまで歩いてバスにて桂駅で解散となった。
お疲れ山でした。
乗る予定の阪急電車特急のすぐあとに来た特別列車の京とれいん雅洛(淡路まで止まらず)に乗るという貴重な体験ができた。
・ポンポン山(加茂勢山)
頂上に近づくにつれて足音がポンポンとひびくことから通称ポンポン山と呼ばれています。
山頂付近では必ずしもポンポンという音ではないが、一部では確かに地中に空洞のあるような音がする場所がある。その原因については、山頂近くの石灰岩の切り出し場所が影響している、地下に鍾乳洞があり音が響いている、あるいは山の地層の一部に空洞があるのでは、など諸説ある。(ウィキ)
・上古よりのパワースポット 出灰渓谷
出灰(いずりは)は、摂津・山城・丹波の三国境界の起点にあたる磁場の強いゼロ地点です。我が国では、神代の頃から、三国境界点は方位の影響を受けない強運の聖地として信仰されてきました。出灰も上古よりの「パワースポット」で、朝廷に献上した良質な石灰を産出したことから「いずりは」と呼ばれるようになったと伝わっています。今でもこの渓谷は、京都府と大阪府の府界で、本堂は大阪府高槻市出灰小字東羅に位置します。八つの滝を擁する出灰不動谷は、役小角(えんのおづぬ)役行者(えんのぎょうじゃ 634伝~706伝)が、日本で初めてとなる毘沙門天を安置したという加茂背山(ポンポン山)の北斜面に位置し、古来、山岳信仰の行場として不動明王がお祀りされてきました。京に都が遷った後も江戸期に至るまで、この一帯は都の西方を護る西山最深部として信仰を集めた土地でした。とんち話で有名な一休宗純(いっきゅうそうじゅん)<1394~1481年>が、戦乱の喧騒に明け暮れる都への厭世観から、尸陀林(しだりん-釈尊在世時のインド中部にあった聖地)に重ね合わせて移り住んだ土地としても知られていますが、当時は現在の想像をはるかに超える過酷で厳しい山中でした。過酷さゆえ、前世紀には不動之滝への道も閉ざされてしまいましたが、平成元年、この道を再び切り拓き、真言宗の修行場として再興したのが現在の出灰不動尊です。(光明寺HPより)
【奈良県】三峰山(みうねやま、霧氷)
2024年2月4日(日)
参加者:3人 コースリーダー:吉川 天気:曇り、一時霧
近鉄鶴橋駅午前6時37分発急行五十鈴川行きに乗り近鉄榛原駅南口バス停から7時45分発霧氷バス(往復3200円)で みつえ青少年旅行村へ。
乗客はいっぱいでバスは何台か出るようだが、我々はなんとか 第一便のバスに乗車できた。みつえ青少年旅行村(標高584m)でストレッチをし9時前にスタート。道路を少し戻って林道に入る。昨日から降った雪は上がっているが道も山も雪を被ってきれいだ。分岐登山口を直進して川沿い(名張川の源流か)を上っていく。林道から外れ登山道に入り登って行くと程なく不動堂がありそのすぐ先が不動滝だ。凍ってはいないが落差もある立派な滝で参籠所もある。雪はだんだん深くなるが登山靴で行けるところまで行く。さすがに斜面が急になり滑り出したのでようやくアイゼンを装着する。11時少し前に避難小屋に着き早めの食事とする。11時20分頃歩き出し分岐を過ぎて三峰峠を越すと霧氷林のトンネルと白銀の世界が出現した。三峰山頂(1235m)に11時45分到着し記念撮影する。たくさんの登山者がいた。そこから八丁平を周回し下山を始める。三畝峠を超えて下り分岐を左にとり、往路とは違うコースに入る。展望台付きの避難小屋で少しやすんでからさらに下る。みつえ青少年旅行村には14時少し前に到着し、とん汁やぜんざい、こんにゃく等いただき14時30分発のバスで姫石(ひめし)の湯に寄り(800円、100円割引あり、オリジナルタオル付)、ゆっくり汗を流して榛原駅には17時前に着いた。
お疲れ山でした。
【奈良県】 竜 王 山
2024年1月8日(月・祝)
CL:Yosm 参加者:6名
近鉄桜井駅で参加者全員の顔が揃い、JRまほろば線で柳本へ。街を出て長岳寺から北ルートの山道を暫く進み、大石前のベンチで休息。参加者のお二人が買ってくれた御陵餅を頂く。柔らかくて美味。この山道には所々に石仏があり心が和む。岩盤の道を進むと辻に出てトイレ休憩。ここから舗装路となり、暫く下って龍王山城の由来が書かれた看板を左手に入る。少し進むと道が途絶えるが、何となく踏み跡らしきものがあり、迷いつつも北城跡の山上平地に出た。公園状の広場になっているが、地面は草だらけで、近時はハイカーが来ないようだ。正午前なので陽当たりの良いこの場所で昼食とした。公園出口らしき道を見つけて下ると龍王山城の石碑がある舗装路に出た。近くに行きに辿った脇道入口があり標識の必要性を感じる。舗装路を登り龍王社を経て南城跡とされる竜王山山頂に到着。北城跡よりは狭く、アスレチック風の公園になっており、西側は奈良盆地が見渡せる素晴らしい眺望が開けている。下山路は南ルートを採り、長岳寺奥の院跡に残る不動明王石仏を見た。鎌倉時代作らしいが存在感抜群の見事な出来栄えである。南ルートは周囲に多くの古墳があり、古代この地が豊かな里であったことを偲ばせる。崇神天皇陵を参拝し、周濠沿いから畑の畝道を進んで、天理トレイルセンターで休憩。ビア&コーヒータイムとなった。帰路、黒塚古墳を経て(展示館は無念の閉館日)、柳本駅16:32発の電車に乗った。
「日本勤労者山岳連盟(労山、JWAF)」に所属しています。
(勤労者でなくても参加、加入できます)
老若男女が楽しく誰でも安全に山登りをする会です。
ハイキングや歴史等のテーマに沿った街歩きも企画しています。
また登山以外にも美味しい食に関するイベント等も開催しています。
なにわこぶしの会
会長 吉川達郎
〒564-0061 大阪府吹田市円山町34番4号
(ご連絡はお問合せページよりお願いします)
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