【大阪府】 総会 池田 町歩き
2024年7月7日(日)
コースリーダー:濱野 ランク:スニーカーハイク 雨天決行
阪急電車宝塚線池田駅改札口 午前9時30分集合
コース:池田室町住宅(池田室町住民憲章碑)ー呉服(くれは)神社ー旧加島銀行池田支店ー落語みゅーじあむー池田呉服座ー吉田酒造ー呉春ー伊居太(いけだ)神社ー(五月山動物園)ー池田城跡公園ー池田文庫ー逸翁美術館(有料、割引有)ー小林一三記念館
当日の天気や歩行時間によりコースの短縮や順番等の変更、また全ては行けない場合もあります。
総会では今後の会の運営についての重要な話もありますので、会員は全員参加でおねがいします。
一般参加も総会以外は可。
食事会場:雅俗山荘 時間:12時15分から
ランチ1人4,800円(税込、サービス料なし)魚料理または肉料理
会員は1人あたり2,000円を会で補助します。飲み物は各自負担でおねがいします。
ドレスコードはありませんが、登山靴や露出の多い服装はご遠慮ください。
総会会場:五月山植物園 時間:14時から16時
終了後に希望者は銭湯があります。
・池田室町住宅
小林一三の発案により、有馬箕面電気軌道(現阪急電鉄)が呉服神社周辺の土地2万7千坪207区画を開発し、明治43年(1910年)、同鉄道の開通にあわせて分譲を開始した郊外型分譲住宅。
日本で初めて電鉄会社により開発された分譲型の「郊外住宅地」であり、敷地約100坪を一区画とした2階建て5~6室の住宅を、10年の月賦販売という当時としては斬新な住宅ローンを採り入れたものでした。小林一三は住宅購入対象者を、資産家ではなく大阪に通勤するサラリーマンとし、この住宅地を「池田新市街」と名付け(後に「室町住宅」と改称)、娯楽部の設立、会社直営の購買組合を開設し公園や果樹園なども設置されて、模範的郊外生活が追求された。
・呉服(くれは)神社
くれは神社は創建が仁徳天皇77年(389)と、とんでもなく歴史のある神社です。
主祭神に仁徳天皇、呉服大明神、つまり織姫さんを祀っています。
応神天皇の時代、中国の呉に織物の技術を得る為に渡来系官僚の阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)を送り、4人の織姫が来日、その織りの技術と染色を広める事で日本独自の和服が発展したという。
なお呉国とは中国春秋時代の呉越の呉ではなく半島の百済を指すものと思われます。
そんな歴史から、池田市の市章は糸巻織りのデザインが採用されています。
天正7年(1579)に有岡城の戦いで焼失、本殿は慶長9年(1604)に豊臣秀頼が再建したもの、ご利益は家業繁栄、手芸の上達等。
・旧加島銀行池田支店(インテリアカワムラ)
1888年(明治21年)設立、1937年(昭和12年)に廃業した加島銀行の池田支店。
1918年(大正7年)の木造モルタル2階建ての建築で、石と赤煉瓦の外観で組積造風に見せ、窓上や柱型上部には装飾を設け、正面西側部分にはマンサード屋根の破風を設けて塔屋風に見せている。設計には東京駅や日本銀行本店、大阪市中央公会堂を手掛けた建築家、辰野金吾も加わっており、登録有形文化財に登録されている。
加島銀行はNHK連続テレビ小説「あさが来た」で主人公、白岡あさが設立する「加野銀行」のモデルとなった。
加島銀行の関連では唯一現在も残る建物だという。
・落語みゅーじあむ
日本初の市立の落語資料展示館で、上方落語に関する資料が常設展示されている。
池田は落語との縁が深く、「池田の猪買い」「池田の牛ほめ」「鬼の面」など古典落語の舞台にもなっている。桂文枝が池田市に在住しているほか、初代・二代目春團治の碑が市内の寺に建立されている。
・池田酒
戦国時代の池田は城下町でしたが、江戸時代は商業都市として発展。
特に備長炭と並ぶ最高級炭として知られる池田炭の集散地として栄えました。
池田酒の全盛期は江戸時代前期で42軒の酒造家が認められ、伊丹と並ぶ銘醸地として栄えました。
江戸後期以降、水質や輸送性に優れていた灘が台頭し、池田の酒造業は衰退していきましたが、現在も2つの酒蔵があります。
呉春
元禄14年(1701年)創業で、酒蔵内の井戸で名所五月山の伏流水を汲み上げた水を使い醸造されている。
与謝蕪村に学び、この地に居した絵師松村呉春ゆかりの名前。
谷崎潤一郎の愛飲の酒でもある。
吉田酒造
元禄10年(1697年)に加茂屋平兵衛によって創業した「緑一」の蔵元。主屋は蔵、塀とともに国指定の有形文化財。
阪神・淡路大震災により酒蔵が全壊したが、酒造りの拠点を兵庫県加西市に移して製造し、再建した池田市の蔵でろ過や瓶詰め、ラベル貼りなどを行っている。
・伊居太神社(いけだ)
仁徳天皇77年(417年?)創建と伝わる式内社(延喜式神名帳に記載のある官社)で、池田市に現存する中では最古という織姫伝承の神社。御祭神は「応神天皇」「仁徳天皇」「穴織(あやはとり)大明神」。「穴織大明神」は、別名「穴織媛(あやはとりのひめ)」といい、呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる織姫。
呉服神社が「下の宮」とされるのに対し、こちらの伊居太神社は「上の宮」と称し対をなしている。
本殿は信長に焼かれ(下記の・摂津池田氏と池田城の項で詳述)豊臣秀頼によって再建。五間社流れ造り桃山時代建築の遺風を残す。
昔、源頼光が大江山の鬼退治祈願のために植えた「頼光松」の切株が残され、近くには「徒然草」の吉田兼好松もあったという。
拝殿ではNHKテレビ「てるてる家族」の撮影がされた。
尚、尼崎市下坂部にも伊居太神社(いこたじんじゃ)があり、こちらは穴織は祀っていない。
・池田市立五月山動物園
1957年(昭和32年)4月に開園。
入園料が無料で親しまれている。
国内で飼育されているウォンバット4匹のうち3匹がいる。これらは池田市とオーストラリアのタスマニア島ローンセストン市との姉妹都市提携25周年を記念して、1990年5月に3匹が寄贈された。2017年にも3匹がやってきた。
池田市は「ウォンバットと暮らすまちいけだ」を合言葉に、市のキャラクターとしてPRに活用。
最も多い時は6匹いたが、病気や老衰で数が減少。残る3匹も高齢化し雄の「ワイン」は平均寿命の20歳を大きく超える35歳、人間では100歳超にあたり、飼育下で世界最高齢のギネス記録に認定されている。
池田市は、ウォンバットを継続的に飼育できる道を探り、豪州の動物園と協議。豪州はウォンバットの輸出を制限しているが、五月山動物園は飼育実績があるため、来年夏までに新たに2匹を引き受ける方向で調整が進んでいる。
リニューアル工事のため令和6年6月1日より閉園中。
ウォンバット
オーストラリア南東部を中心に生息するカンガルーと同じ有袋類の動物で、木登りしないため「地上のコアラ」とも呼ばれることも。
・小林一三
1873年(明治6年)1月3日-1957年(昭和32年)1月25日
山梨県韮崎市出身の実業家、政治家。
名前の一三は1月3日生まれから付けられた。
阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループの創業者。
これらの事業は後に阪急百貨店、宝塚歌劇団・東宝として阪急東宝グループを形成する。その過程で六甲山麓の高級住宅地の開発、学校法人関西学院等の高等教育機関の誘致や温泉、遊園地、野球場など娯楽施設の整備を行い、日本最初の田園都市構想を実現した。
実業界の美術蒐集家、また茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、彼の雅号をとって「逸翁(いつおう)コレクション」と呼ばれている。これらを集め公開しているのが「逸翁美術館」である。元々は彼の旧邸・雅俗山荘にあったが、その後美術館は現在地に移転新築され、雅俗山荘はレストランと小林一三記念館として一般公開されている。
近くにはシオノギ製薬創業者の塩野義三郎邸もある。
・池田氏
12代景行天皇の子の大碓皇子の後裔が、池田姓を名乗ったことに始まるという。
大碓皇子は女性のことで、父である景行天皇と不仲となり、双子の弟である倭建命(日本武尊)に殺されてしまう。
池田氏は摂津と美濃に荘園を持っていた関係で、池田氏の末裔が大阪北部に移り住んで摂津池田氏の始祖となり、さらに摂津池田氏の末裔が美濃に移り住んで美濃池田氏となった。戦国から江戸にかけての大名である池田家は美濃池田氏と称している。
池田氏の中では戦国大名の池田恒興が著名で、織田信長の家臣から秀吉に仕え、その子池田輝政は徳川家康の娘督姫を室に迎えて、家康より播磨国を与えられ姫路藩初代藩主となり、姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。その子池田利隆と池田忠継らが領地を分け、転封が繰り返された後、備前岡山藩主と因幡鳥取藩主として廃藩置県まで続いた。維新後両家とも侯爵家に列する。
・摂津池田氏と池田城
池田氏(摂津池田氏)は鎌倉時代から江戸時代にかけて池田城を本拠とした一族。
鎌倉時代の古文書にその名が見られる。
応仁の乱で池田充政は細川勝元の家来のため東軍につくが、西軍の大内政弘の軍に攻められ1469年に池田城は落城。しかし大内軍が去ったため復帰した。
池田氏は細川家の内紛により細川澄元(勝元の養子)につくが、池田正盛の裏切りで細川高国(勝元の養子)により1508年に2度目の落城をし、城主の池田貞正は切腹。池田正盛が城主となる。
1519年池田貞正の子信正が兵を挙げ池田城を奪還するが、1531年に細川高国と浦上村宗の連合軍に攻撃され落城。しかし直後の大物崩れにより城を取り返すと防御を増強する。1548年池田信正は細川晴元を裏切ったとして切腹させられ、子の長正が家督を継ぐ。
池田長正は細川氏から実権を奪った三好長慶につくが、子の池田勝正は1568年織田信長に池田城を攻められ、町に火を付けられる猛攻のため降伏し信長の家来となった。
1570年池田勝正の家臣で池田長正の娘を娶っていた荒木村重が池田氏内紛を画策し、織田方の勢力を一掃し池田勝正は落ち延びた。荒木村重は勝正の弟である池田知正を城主にしたが、実際は村重が池田城を支配し乗っ取った。
1573年荒木村重は突如として織田信長の家臣となり、摂津国の戦国大名となった。翌年村重は伊丹に有岡城を築き、拠点を池田城から有岡城に移した。これにより池田城は廃城となり(同時期に芥川山城も廃城)、池田一族は江戸時代にかけて徐々に歴史からその姿を消していった。
1578年荒木村重は織田信長と敵対し、怒った信長は自ら池田城に陣を敷いた。
1579年荒木村重は城を出た後、有岡城は落城。女房衆122人、一族郎党36人、それ以外の人質衆男性124名、女性388名、合計約670名が、尼崎近くの七松や、京の六条河原で斬首された。
また金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害された。信長の怒りのほどがわかる逸話である。
有岡城が落城の際に、荒木村重の子で数え2歳の乳飲み子が乳母に助け出されていた。
その子の母だしはまだ21歳と村重より24歳も若い妻だったが、河原に引き出されても全く動じることなく、小袖の襟を整えて静かに手を合わせたその姿は見る者の涙を誘いました。辞世の句は
「残しをく そのみどり子の心こそ おもいやられてかなしかりけり」
(この世に残していくみどり子の気持ちが思いやられて悲しい)。
この乳母に救い出されたみどり子は、石山本願寺に保護され、成人後は母方の岩佐姓を名乗り、やがて絵師として身を立てていく。
それこそが浮世絵の元祖と言われる、岩佐又兵衛であった。
有岡城を出た荒木村重は、毛利氏のもとに落ち延び、名を道糞から道薫と称して茶人として本能寺の変の4年後1586年52歳まで生きた。
池田市教育委員会資料等より
<案内の見方>
⛰ CL:コースリーダー
⛰ コース
=:電車、ケーブルカー、ロープウェイ、飛行機、フェリー
→:バス、タクシー、レンタカー、自家用車
―:歩行、登山
⛰ ランクの目安
・スニーカーハイク:町歩き等でスニーカーで歩けるコース。初心者、リハビリ、高齢者向き。
・ハイク:1日の距離が少なく、3~4時間程度歩く。野山のうちで起伏のないところをゆっくり歩く。平坦なハイキングコース。高齢者向き。
・初級:1日10㎞位、3~4時間程度歩く。ゆっくりと、ゆとりのある速度で歩く。荷物は軽く、登り下りのゆるやかな道。
・中級:1日15㎞位、5~6時間程度歩く。普通の速さ、地図のコースタイム位で歩く。荷物は10㎏程度、コースの中に少し急な登り下りがある。
・上級:1日15㎞以上、6時間以上歩く。長いコースを普通の速さで歩く。荷物は15㎏以上背負い2日以上の縦走、急登および急な下りあり。
⛰ 雨天の中止について
案内に特段の記載が無い場合、降水確率が高い時は中止ですが、当日朝または前夜の天気予報等やコースの状況等をコースリーダーが判断して、催行の可否をホームページに記載するか、参加予定者には連絡します。
一般参加をご希望の方は問い合わせページから、参加希望の山行と名前、連絡先、年齢、登山歴と参加人数を記入して送信してください。(一般参加費1日300円) 特に記載のない場合は弁当を持参ください。
【 県】
2024年 月 日(日)
コースリーダー: ランク: 歩行時間:約 時間
集合: 時 分
コース:
注意事項等
「日本勤労者山岳連盟(労山、JWAF)」に所属しています。
(勤労者でなくても参加、加入できます)
老若男女が楽しく誰でも安全に山登りをする会です。
ハイキングや歴史等のテーマに沿った街歩きも企画しています。
また登山以外にも美味しい食に関するイベント等も開催しています。
なにわこぶしの会
会長 吉川達郎
〒564-0061 大阪府吹田市円山町34番4号
(ご連絡はお問合せページよりお願いします)
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